刈谷城は天文2年(1533)に水野忠政によって築城されました。その後、慶長5年 (1600)に水野勝成が初代藩主となり、分家水野家、深溝松平家、久松松平家、稲垣家、 阿部家、本多家、三浦家、土井家の9家 22 人の藩主が支配しています。
明治4年(1871)の廃藩置県後に城は政府所有となり、明治6年(1873)入札による払下げが行われ建物は解体されました。そして、昭和12年(1937)には亀城公園となり市民に開放されましたが、約70年が経過し、老朽化による公園機能の低下が著しい状況です。
一方で、亀城公園は、刈谷城の本丸・二之丸という歴史的な場所であったことから、 その重要性と立地条件を活用し、市民の歴史・文化に対する意識の向上やまちへの愛着や誇りを培うために、将来市民の心のよりどころとなるようなシンボルづくりが望まれていました。 これらのことから、刈谷城の復元整備を目指しています。
刈谷市域は、衣ヶ浦が北に深く入り込んだ東側に位置していることから、本刈谷貝塚、八ツ崎貝塚、芋川遺跡など碧海台地のへりに沿って古くから集落が形成されていました。
文明8年(1476)頃、衣ヶ浦を挟んだ西側にあった緒川城(東浦町)の城主であった水野貞守
が刈谷に進出して、現在の本刈谷神社の北にあたる場所に城を築きました。これが最初の「刈谷城」です(ここでは刈谷城と区別するため「刈谷古城」とします)。
城といっても館程度であったと思われますが、これは衣ヶ浦をめぐる水運を利用した勢力拡大を図ったものだろうと考えられています。
天文 2 年(1533)刈谷古城が手狭になったという理
由で、現在の亀城公園北側に水野忠政が「刈谷城」を築城
しました。
この頃は戦争に備えるための砦程度であっ
たと思われます。
場所は現在の刈谷市城町(亀城公園や刈谷球場のある場所)になります。
江戸時代になって刈谷藩が設けられると水野勝成が初代藩主となり、明治維新を迎えるまで水野分家、深溝
松平家、久松松平家、稲垣家、阿部家、本多家、三浦家、土井家の 9 家 22 人の譜代大名が藩主となり、刈谷は本格的に城下町として発展していきます。
刈谷城は、三河最西部、境川河口の衣ヶ浦の入江に突き出した台地の上に築かれた平山城でした。
西の衣ヶ浦に面して、本丸を置き、周りに堀を巡らし、その外側に二の丸、その東側に三の丸がありました。大手門から町口門を経て城下町へ通じています。
江戸時代前期の城絵図によると本丸の北西と南東の隅に櫓があったことが確認できます。城米蔵、武器蔵、作事蔵、賄所等の位置も記され、番所がところどころに配置されています。
現在、刈谷城の本丸と二之丸の一部が亀城公園となっています。本丸の北西の隅に立っていた櫓の場所には、現在、市民集会所である十朋亭が建てられています