刈谷城盛上げ隊ロゴ

藩主紹介

かつての刈谷を生き抜いた藩主が平成の現代に蘇る、熱き魂を込めた「刈谷城盛上げ隊」を紹介

刈谷城築城480年を記念して平成25年5月、刈谷城復元の機運を盛り上げるために 「刈谷城築城盛上げ隊」が結成されました。 そして平成28年度より「刈谷城盛上げ隊」と名を改め活動を継続しています。 メンバーは初代刈谷城主と江戸時代に刈谷藩で活躍した藩主から構成されています。

水野 忠政みずの ただまさ  水野忠政は於大の父である。したがって徳川家康にとっては祖父にあたる。
 忠政は明応2年(1493)に生まれる。 「寛政重修諸家譜」かんせいちょうしゅうしょかふ によると、初名は 妙茂ただもと 、牛息丸・藤七郎・下野守しもつけのかみ右衛門大夫うえもんたゆう と称した。刈谷・緒川・大高の城を領し、刈谷の城(刈谷古城のこと、現在の元刈谷)は適さないとして、「かねがせうじ」(現在の亀城小学校校庭から南に延びる細い道だといわれる)というところに新城を築いたとされる。しかし、この刈谷城の築城のことをはじめ、現在詳細なことはわかっていない。
 天文12年(1543)7月12日51歳で没する。太渓堅雄長江院と号し、東浦町 乾坤院けんこんいんに葬られている。

水野 忠政

水野 勝成みずの かつなり  水野勝成は、忠重ただしげ の子として永禄7年(1564)に刈谷で生まれる。勝成と徳川家康とは従兄弟同士にあたる。慶長五年(1600)7月、忠重死去の報をうけた勝成は、家康の許可を得て下野国小山から直ちに帰国した。家康は忠重の不慮の死を弔い、あわせて勝成の襲封 しゅうほうを知らせ、変わらぬ奉公を命じている。これによって刈谷藩主初代藩主となる。現在刈谷市内には、勝成奉納の 総髪そうごう の兜、獅子頭、 棟札むねふだ などが残っている。
 慶長19年から元和元年(1615)の大坂の陣で軍功をあげ、大和郡山六万石に移封される。さらに元和5年備後福山へ転封する。福山に移った勝成は城とその周辺に城下町を築いた。慶安4年(1651)没する。福山市賢忠寺に眠る。

水野 勝成

水野 忠清みずの ただきよ  天正10年(1582)、刈谷城主水野忠重の4男に生まれる。母は宇川氏。幼名は惣兵衛、通称は権十郎といった。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの時徳川家康の命によって出陣し、同7年従五位下隼人正に叙任し、徳川秀忠より上野国小幡一万石を与えられる。2度の大坂の陣に参戦する。
 元和2年(1616)病床の家康から本領刈谷の城と一万石の加増を受ける。寛永9年(1632)三河国吉田4万石、同11年には5000石が増加され、同19年信濃国松本7万石に転じたのち、正保4年(1647)5月28日没する。小石川伝通院(東京都文京区)に葬る。刈谷藩主としては16年余りであったが、忠清に関する資料はほとんど残されていない。

水野 忠清

松平 定政まつだいら さだまさ  久松松平と称する。慶長15年(1610)山城国伏見藩主松平定勝の6男として生まれる。父定勝は徳川家康の生母於大が岡崎松平広忠に離縁されたのち、再婚した阿久比久松俊勝との子である。したがって於大は定政にとって祖母にあたる。
 寛永10年(1633)2月に家光に仕え、12月従五位下能登守に叙任する。同11年伊勢国三重郡の内で采地5千石、同12年同国長島城を賜ったのち慶安2年(1649)2月1万3千石が増加され、三河国刈谷へ転封する。刈谷藩での定政は猿渡川流域の高須新田など領内の新田開発に力を尽くした。しかし、慶安4年家光が没するとまもなく長子定知 さだともとともに剃髪して能登入道不白と称し、江戸市中を托鉢して廻った。そのため幕府は狂気とみなし、所領を没収したうえ身柄を松山藩主松平定行に預けて蟄居 ちっきょを命じた。

松平 定政

稲垣 重綱いながき しげつな  天正11年(1583)越後長岡藩主牧野家の重臣大坂城稲垣長茂ながしげ の長子として三河国に生まれる。初め重種といい、のち藤助、平右衛門と称した。父長茂は当初三河国宝飯郡牛久保城主牧野成定に仕えていたが、永禄8年(1565)に同氏が徳川家康に属した時に家康の直臣となり、同年10月牧野康成に仕える。
 重綱は慶長5年(1600)徳川秀忠が信濃国上田城を攻めた時、牧野康成に従い攻撃に加わった。同年12年には父長茂とともに伏見城の守衛にあたる。同17年遺領である上野国伊勢崎を継ぎ、元和2年(1616)1万石が加増され、越後国藤井2万石を領する。同6年同国三条に移る。寛永3年(1626)従五位下摂津守に叙任する。慶安元年(1648)9月大坂城代を命じられ、同年10月25日に職を辞したあと、同4年9月刈谷2万3000石で転封する。承応3年(1654)1月8日没。

稲垣 重綱

阿部 正春あべ まさはる  寛永14年(1637)阿部重次の次男に生まれる。はじめ利重とししげ正長まさなが 、長松、吉兵衛と称した。父重次は三浦重成の養子となるが、重成に実子が誕生したため家督を辞し、近江国浅井郡の内で3千石を分与され独立する。しかし、寛永5年に実兄の阿部政澄(まさすみが実父正次に先だって病死したため、重次は正次の嫡となって姓を三浦から阿部に復した。
 正春もはじめは三浦を称し、承応2年(1653)12月28日従位五位下因幡守に叙任した。その後、兄完高さだたか が重病で、その子正邦が幼少であったため、万治2年(1659)伊予守に改め、阿部を復してその遺領を継ぐ。寛文11年(1671)正邦が成長したため完高の遺領を渡し、元の1万6千石の大多喜藩主となったあと、元禄15年(1702)9月刈谷に転封する。宝永6年(1709)4月25日致仕する。

阿部 正春

本多 忠良ほんだ ただよし  本多平八郎忠勝の流れを汲む本多肥後守ひごのかみ忠英ただひで の長男として、元禄3年(1690)に生まれる。初めは忠隆ただたか といい、のち権次郎と称した。宝永6年(1709)9月13日越後国村上藩主本多忠孝が12歳で早世したため、忠良が遺領の内5万石を与えられて養子となって家を継ぐ。同年12月従五位下 じゅごいげ中務大輔なかつかさ たゆう に叙任する。翌7年5月23日刈谷に転封となった。本多家は功労のある家柄として幕府から優遇され、同年御側用人おそばようにん として将軍に側に仕える。
 この本多氏のときに刈谷藩最大の5万石を領した。この時刈谷藩では給人による地方知行じかたちぎょが行われ、定免制じょうめんせい も行われている。このほか農民に干鰯ほしかを貸し付け、翌年秋に利息をつけて返させるということが行われている。
 正徳2年(1712)7月12日下総国古河こがに転封となる。刈谷在城は3年弱の短い期間であった。

本多 忠良

三浦 明敬みうら あきひろ  万治元年(1658)下野国壬生みぶ 藩主三浦正次の長男に生まれる。寛文12年(1672)12月28日従五位下壱岐守に叙任する。天和2年(1682)11月2日遺領である下野国壬生を継ぎ、貞享3年(1688)11月27日奏者番となり、元禄2年(1689)2月6日若年寄に転じ、5月2日には奏者番に復している。同5年壬生から日向国延岡へ転封となる。正徳2年(1712)7月12日刈谷へ移る。
 刈谷在任時期はちょうど正徳期の飢饉で、領内には飢人が続出し藩財政は窮乏した。そのため先納金や御用金を課した。また年貢納入に差し支える農民たちは、現金収入を得るために他所へ奉公に行くことがあったが、これは田畑が荒れるもとだとし、他所奉公人を呼び戻すように触れを出している。
 享保8年(1723)10月11日奏者番を辞し、同9月2月15日致仕する。

三浦 明敬

土井 利信どい としのぶ  享保8年(1723)西尾藩主土井利庸としつね の長男に生まれる。幼名八助。同19年6月15日、父利庸死去により遺領である西尾を継ぐ。元文5年(1740)12月21日、従五位下位伊予守に叙任する。延享4年(1747)2月11日西尾を改めて刈谷に転封する。それまで刈谷藩主であった三浦義理 よしさとが西尾に移ったことから、交替したことになる。西尾からの転封にあわせて菩提寺である利勝寺を西尾から刈谷に移している。
 明和元年(1764)5月2日大隅守に改める。利信には2男2女がいたが、2人の男は早世してしまったため、親戚筋の仙台藩主伊達家から養子を迎えることとし、同年9月23日伊達宗村の6男藤六郎を養子に迎え利置 としやすと改名するが、同3年死去する。そのため同年宗村の3男藤三郎(のち利徳)を養子に迎える。同4年8月18日に致仕し、同8年2月24日没。

土井 利信

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